国名 ベトナム社会主義共和国                             
英語 Socialist Republic of Viet Nam  
首都 ハノイ(Hanoi)  
独立年 1945.9(フランス)  
民族 キン族(ベトナム人)86%、他に53の少数民族  
主要言語 ベトナム語  
面積 32万9560km2  
人口 9616万0163人(2017推計)  
通貨単位 ドン(Dong)  
宗教 仏教8%、カトリック7%、無宗教82%  
主要産業 衣類、履物、魚介類  





地理

国土は S字を引き延ばしたように細長く延び、南端から北端までは約 1600kmにわたるが、
東西の幅は最もくびれたところでは 50kmにせばまる。

山がちで、国土の 4分の3は山地、高原からなるが、南部ではメコン川が、北部ではソンホン川が
いずれも北西から南東へ貫流し、その下流域に広大なデルタ(三角州)を形成している。

メコン川デルタとソンホン川デルタはベトナムの二大穀倉地帯となっており、人口も集中している。
またコーヒー栽培は、世界第二位の生産量(99万トン、2003年)に達している。

鉱物資源は、スズ、亜鉛、クロム、鉄鉱石のほか、リン鉱石を産出する。
また南シナ海で石油の開発が進んで原油が重要な輸出品となっている。

気候的には北部は温帯季節風気候、中部から南部にかけては熱帯季節風気候。
ハノイ 16℃(1月) 29℃(7月) 年降水量1650mm

住民の 80%以上はベトナム人で、残りはタイ Tay、クメール、タイ Tai、ムオン、ヌン、
メオなど 60以上の少数民族や中国人からなる。

公用語はベトナム語であるが、少数民族はそれぞれの言語も使う。




歴史

ベトナムは、古くから中国文化の影響を受け、前4世紀頃から銅鼓に代表される青銅器文化である
ドンソン文化(Dongsonian Culture)が栄えた。

BC214年、秦の始皇帝が南海郡(現在の広東省)を設置してベトナム北部を支配した。



南越国(Nanyue  BC203-BC111年)

BC203年、秦末の混乱に乗じて、南海郡の県令であった趙佗(ちょうだ)が南越国を建国。
広東、広西、北ベトナムの諸民族を支配して、真珠、べっ甲、象牙など南海貿易の利を独占した。

しかし、BC111年、前漢武帝により征服され、以後およそ1000年間、ベトナム北部は中国の支配下におかれた。

ベトナム北部は中国の王朝の支配を受けることが長かったため、漢字文化圏に属することとなり、
儒教や科挙制度なども採り入れられた。



チャンパ王国(Champa 192-1471年)

192年、インドネシア語族のチャム族(Cham)が、インドシナ半島南東岸にチャンパ王国を建国した。

南シナ海航路の要衝にあたり沈香(じんこう)などの輸出品も持つことから海上交易で繁栄した。
中国の史書によれば、チャンパ王国は「林邑」「環王」「占城」などと記されている。

チャム族は、隣国の扶南から伝わったヒンドゥー教を信仰した。
ベトナム中部の町ダナンの南東約45㎞のところに、ミーソン聖域(My Son)と呼ばれる世界遺産の
ヒンドゥー教寺院の遺跡群がある。この遺跡群を建設したのがチャム族である。

4世紀後半から神殿の建造が始まり、7世紀から13世紀にかけて大規模な神殿が建造された。
神殿は複雑な造形の上に、精緻なレリーフの装飾を施され、高度な技術力を誇っている。

繁栄したチャンパ王国であったが、15世紀以後はベトナムの大規模な南進によって衰退し、
1471年、大越国の黎朝(れちょう)によって滅ぼされた。



大越国(Dai Viet 1009-1802年)

907年、唐滅亡後、ベトナム人の独立の動きが強まり、最初の李朝以下、ベトナム人の国家である
大越国(国号)の王朝が交替していった。

中国の各王朝は宗主権を維持しつつ、時に直接支配を及ぼすこともあった。
大越国に存在した各王朝は以下の通り。

李朝(りちょう 1009年-1225年)
陳朝(ちゃんちょう 1225年-1400年)
黎朝(れちょう 1428年-1789年)
西山朝(たいそんちょう 1778年-1802年)



阮朝(Nguyen Dynasty 1802-1945年)

1802年、フランスの後押しを受けた阮福映(げんふくえい)がベトナムを統一、阮朝(げんちょう)を興し、
国号を越南とし、首都を順化(Hue フエ)に定めた。

清朝の制度を参照して中央集権化を進め、科挙制度や省制度などを採用した。
だが、やがてフランスによる干渉が強まり、1882年にはハノイを占領され、ベトナムは事実上の植民地となる。





第二次世界大戦が始まった翌年1940年、宗主国フランスはナチスに占領された。
すると日本は、フランスの弱体化に乗じてベトナムに進駐。

二重支配に反発した地下組織の共産党は、ホー・チ・ミンを指導者とするベトナム独立同盟会を結成した。


第一次インドシナ戦争(1946~1954年)

1945年8月15日、日本の敗戦を受け、ホー・チ・ミンがベトナム民主共和国の成立を宣言。
しかし、これを認めない旧宗主国フランスは、1946年、武力攻撃を開始し、第一次インドシナ戦争が始まった。

アジアの共産化を恐れたアメリカはフランスを支援するが、1954年5月、ディエンビエンフーの戦い
(Battle of Dien Bien Phu)でフランス軍は大敗。



1954年7月、ジュネーブ休戦協定が結ばれ、北緯17度線以北では中国・ソ連が支援するベトナム民主共和国
(北ベトナム)が、以南ではアメリカが支援するベトナム共和国(南ベトナム)が成立した。


第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争 1965~1975年)

ベトナム共和国(南ベトナム)の初代大統領ゴ・ディン・ジエム(Ngo Dinh Diem 在任1955~1963年)は、
独裁と政治腐敗によって、次第に国民の支持を失った。

政権を打倒するため、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が誕生し、ソ連と中国の支援を受けている
ベトナム民主共和国(北ベトナム)から支援を受けゲリラ活動を開始する。

1963年11月、ベトナムへの武力介入に慎重であったアメリカのケネディ大統領が暗殺されると、ジョンソンが大統領に就任。

1964年、北ベトナムのトンキン湾でアメリカ軍の駆逐艦が北ベトナム軍の魚雷攻撃を受けたとされるトンキン湾事件が起きると、
ジョンソンは直接的な軍事介入を決断した。


ベトコンへの補給路を断つ目的で、1965年3月、北ベトナムへの大規模な空爆(北爆)を開始し、ベトナム戦争が始まった。
1968年、北ベトナム軍とベトコンによる大規模抗戦が始まり、戦争は長期化。

1973年、中国の介入などもあり、ようやくパリ和平協定を締結し、アメリカ軍が撤退を開始。
1975年に南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン市)が陥落、ベトナム戦争は終結。

1976年7月、南北ベトナムは統一され、ベトナム社会主義共和国が成立した。


  ベトナム史
  BC214年 秦の始皇帝、北部ベトナムに南海郡以下三郡を設置
  BC203年 趙佗が南越国を建国
  BC111年 前漢の武帝、北部ベトナムに南海郡以下九郡を設置
  192年  インドシナ半島南東岸にチャンパ王国成立(~1471)
  679年 唐の高宗、南海交易の拠点としてハノイに安南都護府を設置
  1009年 ベトナムに李朝興る(~1225)
  1225年 ベトナムに陳朝成立(~1400)
  1428年 ベトナムに黎朝興る(~1789)
  1778年 ベトナム、タイソン(西山)党の乱、西山朝の成立(~1802)
  1802年 阮福映、越南(ベトナム)を統一し、阮朝を建てる(~1945)
  1858年 仏越戦争始まる(8月)(~1862)
  1862年 サイゴン条約締結。阮朝(ベトナム)、フランスにコーチシナの一部を割譲(6月)
  1873年 第二次仏越戦争(~1874)
  1883年 フランスとベトナム、アルマン条約締結。トンキン、アンナンを保護領とする(8月25日)(フランス領インドシナ)
  1887年 フランス領インドシナ連邦成立(~1945)
  1940年 (昭和15) 日本軍、フランス領インドシナに進駐(9月23日)(北部仏印進駐)
  1941年 ベトナム独立同盟会(ベトミン)結成。反フランス・反日本民族解放路線を決定(5月19日)
  1941年 (昭和16) 日本軍、ベトナム南部に進駐(7月28日)(南部仏印進駐)
  1945年 ベトナム民主共和国(北ベトナム)独立宣言。臨時政府主席ホー・チ・ミン(9月2日)
  1955年 ゴ・ジン・ジェム、共和制宣言。ベトナム共和国(南ベトナム)成立(10月26日)
  1960年 南ベトナム解放民族戦線結成(12月20日)
  1963年 南ベトナム、軍部クーデター。ゴ・ジン・ジェム大統領暗殺(11月2日)
  1964年 トンキン湾事件。アメリカ、ベトナム戦争に本格介入(8月2日)
  1965年 アメリカ軍、北爆開始。ベトナム戦争激化(2月7日)
  1967年 東南アジア諸国連合 ASEAN結成(8月8日)
  1968年 ベトナム和平会談、パリで始まる(5月13日)
  1969年 ベトナム拡大和平会談(1月25日)
  1969年 北ベトナム、ホー・チ・ミン主席(大統領)死去(9月3日)
  1973年 ベトナム、パリ和平協定調印。ニクソン、ベトナム戦争終結宣言(1月27日)
  1975年 ベトナム人民軍、サイゴン入城。ベトナム戦争終結(4月30日)
  1976年 ベトナム、南北統一。ベトナム社会主義共和国として発足(7月2日)
  1978年 ソ越友好協力条約調印(11月3日)
  1979年 ベトナム軍、カンボジア侵攻。ヘン・サムリン政権、カンプチア人民共和国を樹立(1月11日)
  1979年 中国軍、ベトナム国境侵攻(2月17日)(中越戦争)
  1986年 ベトナム共産党、ドイ・モイ政策採択(12月18日)
  1994年 アメリカ、対ベトナム全面禁輸措置を解除(2月3日)
  1995年 アメリカとの国交正常化









ダナンのゴールデンブリッジ(The Golden Bridge of Danang)

「ゴールデンブリッジ」は、ベトナム中部ダナンから車で約40分、テーマパーク
「バーナーヒルズ(Ba Na Hills)」のフラワーガーデン内にある。

山腹から現れた巨大な石の手に支えられている驚異的な建築物で、標高1,400mに位置し、
150mの歩行者用通路が緑豊かな森の上に広がっている。

2018年の開業以来、ベトナムの新たな名所として人気を博している。









ベトナム戦争 (Vietnam War)


ベトナム戦争は、 5代に渡るアメリカ大統領が関与し、ベトナム人どうし
が戦って大きな犠牲者を出した典型的な米ソ冷戦の代理戦争だった。

ケネディのベトナム早期撤退方針は、彼が暗殺された後、後任のジョンソン
によって反故にされ、戦争介入は逆に押し進められて、泥沼化していった。


アメリカの正義は、自由と民主主義を守り抜くことにあった。
戦争介入も、共産主義勢力の抑圧から、ベトナム人民を解放するためだった。



介入のきっかけとなったのが、1964年のトンキン湾事件である。

トンキン湾事件は、1964年8月、トンキン湾で北ベトナム軍の哨戒艇が
アメリカ海軍の駆逐艦に、2発の魚雷を発射したとされる事件。

これをきっかけにアメリカは本格的にベトナム戦争に介入、北爆を開始した。


ホー・チ・ミンは、必ずしも共産主義者ではなかった。彼はベトナム独立のための
民族主義者で共産党を利用しようとしただけである。

それを結局、アメリカは共産主義者のレッテルをはって追い込んでいった。
これはキューバのカストロに対する手口とまったく同じだった。


相手が弱ければ、一度も話し合いをしないで、一方的に武力で追い込んでいく。
それが民主主義国家を標榜している覇権主義国家アメリカのやり方なのである。

戦前の帝国主義列強とどこが違うのだろうか。
攻められた方は、窮鼠猫をも噛むのは昔も今も同じである。


また後のアフガン戦争もイラク戦争もすべて、アメリカが戦争の理由にしているのが、
国連憲章の集団的自衛権だった。

アメリカは、ささいな事を口実に、集団的自衛権の行使と称して多国籍軍を組み、
それぞれの国を攻撃して、多くの犠牲者を出している。

こうして集団的自衛権は、超大国の武力行使の手段として使われるようになった。
結局、この国連憲章がある限り、この世から戦争がなくならないということである。


ベトナム戦争は、冷戦時代の局地戦争であり、ベトナムにとっては総力戦だった。
この戦争は、きわめて深い傷を戦争の当事者たちにもたらした。

ベトナム側は、民間人の被害者を加えると、200万人以上が死傷し、650 万人以上
が田畑を失ったといわれている。

また、爆弾の投下量も膨大で、いかにベトナムの国土が荒れたかがわかる。


またアメリカの戦死者は、5万8000人を超えた。生還した兵士の間でも、
負傷や枯れ葉剤などの後遺症に苦しめられる人が多数にのぼった。

アメリカは、本来の目的であったベトナム沖の油田の獲得を果たせず、1973年に撤退
するまで、多大な戦力と兵員を無意味に消耗した以外の何ものでもなかったのである。






     




ベトナム戦争(アメリカの戦争にノーといえない日本)


ベトナム戦争にさいして、日本政府は、アメリカの軍事介入を全面的に支持し、

西東京の横田基地など在日米軍基地をベトナム攻撃の最前線の基地として

使用させている。


これに対し、反戦を訴える「べ平連」など、学生運動や市民運動が活発化し、

デモや集会が頻繁に開催された。




一方、ベトナム戦争取材のため、TBSはニュースキャスターの田英夫らを

米軍の激しい爆撃下にある北ベトナムに派遣した。

西側の報道陣が北ベトナムに入ったのはこれが初めてであった。


この取材の結果をドキュメンタリーにまとめ、この中で田英夫は、殺人兵器の恐ろしさ、

戦争の悲惨さを伝えるとともに、爆撃下の北ベトナム人の微笑みをみて、アメリカが

この戦争に勝利をおさめるのは困難だとの見通しを表明した。


しかし政府筋は、これに対して偏向報道として反発し、その後も政府与党が

反発するような問題がTBSに関していくつかあった。


こうして政府筋の圧力が強まった結果、翌年、田英夫はニュースキャスターを降板して

調査部門に移り、のち退社した。

(ハノイ・田英夫の証言 1967年10月30日 TBS)